Yukie Nishimura Official Website

ピアノとピアノの音を被災地に。「Smile Piano 500」

活動の報告

2015.04.18

ピアノを届けに 〜亘理町〜仙台〜

4月18日、埼玉から運んできた3台のスマイルピアノを、宮城県内のご家族にお届けしました。
そして今回は2台のピアノをお預かりし、持ち帰りました。
これらのピアノは調律を経て、スマイルピアノとして生まれ変わります。

朝、桜が満開の仙台を出発し、高坂さんご夫妻が待つ亘理町へ向かいました。
ご夫妻は、ピアノが大好きな中学生の次女のために申し込んでくださいました。
この日は土曜日でしたがあいにく登校日にあたり、娘さんには会えなかったのですが、近所の皆さんが集まって、一緒にスマイルピアノを迎えてくださいました。

海岸から1.5キロのところにある高坂さんのお宅は、津波による大きな被害を受けました。
あの日、当時高校生だった長女だけが自宅にいて、地震のあとで外へ出ると「津波が来ます。避難してください!」というアナウンスが聞こえ、そのまますぐに近所のかたと一緒に避難所へ行ったそうです。
1メートルくらいの高さまで浸水した1階は、東京や島根など遠方から駆けつけた若いボランティアの人たちが丁寧に泥を払い、きれいに片づけてくれました。
1階には、3人の子どもたちのために1990年代後半に購入したピアノがあったのですが、水浸しになって壊れてしまいました。
泥だらけになったピアノを見て、高坂さんはかわいそうで仕方がなくなり、表面がきれいになるまで真水で洗い、音が出なくてもそのまま残しておきました。
でも、またピアノの音が聞きたい、合唱コンクールで伴奏をすることになった娘にピアノで練習させてあげたい——。そんな思いから、スマイルピアノにお便りをくださったのです。
無事に搬入を終えたピアノで、西村は「希望の道」を演奏しました。
この曲は、震災直後から被災地へ通うたびにいつも車で通る道が、あるとき「希望の道」であると感じ、ニューアルバムにも収録した曲です。
西村がそのことをお伝えし、曲を弾き終わると、ご近所に住むある奥さんがこう言いました。
「この町は、とても孤立しているんです。多くの人が修繕も建て直しもあきらめてほかの土地へ行ってしまいました。報道でとりあげられることもありません。色も音もなくなり、まるで取り残されたように感じることがあります。今日ピアノを聴いて、『生活の中に音があるっていいなぁ』と思いました」
高坂さんの娘さんに、これからたくさんの音を奏でてほしい。西村は、心からそう願っています。


午後は仙台に戻り、まずピアノをお預かりするために、千田さんを訪ねました。
昨年の秋に84歳で亡くなったお母さんが若いときに弾いていたピアノは、40年以上前に、とても丁寧に作られたものです。
ピアノの固定や防音のために使われるインシュレーターは、今ではプラスチック製なのですが、このピアノについているものは木製なので、とても珍しいです。
西村のラジオ番組「SMILE WIND〜愛ある家族へ〜」を聴いてスマイルピアノのことを知った千田さんは、「誰も弾かなくなってしまったこのピアノを、誰かのために役立ててほしい」と思い、私たちにお便りをくださいました。
実は西村、この日は朝から疲れ目がひどく、まるで出血しているかのように白目が充血していました。
ところが、千田さんが手をかざすと、すうーっと赤みが引いたのです。太極拳を習い始めてから「気」が出るようになったのだそうです。
千田さん、ありがとうございました!
ピアノを運び出す前に、西村が「青葉城恋唄」を演奏しました。
仙台駅からすぐのところで居酒屋を経営しているという千田さん。
西村もスタッフも、いつかぜひ千田さんのお店に寄らせていただきたいと思っています。

, 

次にお訪ねしたのは、小さい時からピアノ教室へ通っている、中学生のことみちゃんが待つお宅です。
西村のラジオ番組を聴いたお母さんが申し込んでくださったのですが、ことみちゃん自身も手紙を何通も書いてくれました。
西村の曲「明日を信じて」が大好きで、いつか弾けるようになりたいと、手紙に書いてありました。
ことみちゃんが大切に使っていたピアノは、地震で大きな棚が倒れこんだために壊れてしまいました。
たまたま蓋が開いていて、鍵盤には無数のガラス片が突き刺さってしまいました。
その後、いとこのお兄さんから古い電子ピアノを譲り受けたのですが、最近は音があまり出なくなってしまったのだそうです。
2011年、ことみちゃんは震災だけでなく、いくつもの辛い経験をしました。
1月には大好きだったお祖母ちゃんが亡くなり、年の終わりが近づいて再び寒くなった頃には、がんが見つかりました。
半年を超える入院生活のあいだ、抗がん剤の治療があまりにもしんどくて、耐え切れずに吐いてしまうことが何度もあったそうです。
そのたびにことみちゃんは、投与された薬を吐き出してしまったことに罪悪感をおぼえてしまい、「お母さん、ごめんね」と泣いていたそうです。
でも、そんな辛いことがあっても、ことみちゃんはピアノを忘れませんでした。病院に置いてあった電子ピアノを弾いていたそうです。
病気を克服したことみちゃんは、抗がん剤治療による脱毛に悩む女性たちのために、お母さんと一緒に帽子を作ってプレゼントしたり、帽子を飾るアクセサリーを手作りしたり、その材料費を集めるためにバザーに参加したり、とても精力的に活動しています。
もちろん、ピアノも頑張っています。
ピアノが無事にリビングに収まると、ことみちゃんが「旅立ちの朝」を弾いてくれました。
そのうちに、ことみちゃんの家族も、そして仙台在住の調律師の関さんも、素敵な声で歌い始めて大合唱になりました。

西村は「ビタミン」を演奏しました。
ことみちゃん、いつか「明日を信じて」を聴かせてくださいね!

,

再び車を走らせて、太田さんのお宅へ向かいました。
お便りをくださった娘さんは、西村のラジオ番組を毎週聞いてくださっているとのこと。とても嬉しいです。
この日は、お母さんと2人で私たちの到着を待っていてくださいました。
子どものときからずっとピアノに憧れていたお母さんは、大人になってから両親が買ってくれたこのピアノを、結婚したときに持ってきたのだそうです。
ずっと大切に弾いていて、娘さんも使っていたのですが、やがて月日が経つうちに、お二人ともピアノに触れる時間がなくなってしまったそうです。
「このピアノがお役に立てるなら嬉しいです。遠くから来てくださって、ありがとうございました」 お母さんは、温かい笑顔で私たちを労ってくださいました。
西村は「微笑みの鐘」を演奏しました。
すると音が鳴り始めてまもなく、お二人の目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちました。
「このピアノって、こんなにいい音がするんですね……」
長く弾いていなかったこのピアノがどんな音を出すのか、あるいはこのピアノにどんな価値があるのか、震災後は思いをめぐらす機会がなかったそうです。
太田さん母娘は部屋から運び出されていくピアノをじっと見守り、そして出発する私たちの車にいつまでも手を振って見送ってくださいました。


この日最後の訪問先は、37台目のスマイルピアノをお届けする田村さんのお宅でした。
ヨガと体操を教えているアクティブなお母さんと3人のお子さんたちに加え、お祖母ちゃんや親戚の子どもたちも集まって、とてもにぎやかでした。
子どもたちが西村を歓迎するポスターをいくつも作って、部屋に飾ってくれていました。

震災当時、一家は亘理郡にある海沿いの町に住んでいました。
仙台で保育士の仕事をしていたお母さんは自宅へ向かう大渋滞の中、泣きながら子どもたちの無事を祈ったそうです。
自宅は津波で全壊し、震災の1年前に亡くなったお父さん(お母さんのお父さん)が買ってくれたピアノも流されてしまいました。
現在は仙台市内で、県が仮設住宅として借り上げている古い一軒家で暮らしています。
アクティブなお母さんは週に一度、自宅に集まってくる人たちにカレーをふるまっているのですが、この活動が有名になり、なんと安倍昭恵首相夫人も訪れてカレーを召しあがったそうです。
この日も、1升と3合分のご飯を炊いておにぎりを作ってくださったのですが、たくさんの子どもたちが集まっていたので、あっという間になくなってしまいました。

ずっとピアノを習っている中1のお姉ちゃんに加え、小2の妹も最近ピアノを始めました。
これまではお母さんの友人から譲り受けた古い電子ピアノで練習していましたが、普段は聞かないラジオをある日たまたまつけたら、西村の番組と出合ったそうです。
スマイルピアノのことを知って、子どもたちにピアノを弾かせてあげたいと思い、お便りを寄せてくださいました。
西村が「ビタミン」を弾くと、畳の上に座っていたお祖母ちゃん(お母さんのお祖母ちゃん)の指が、まるでご自身もピアノを弾いているかのように、軽快に動き出しました。
音楽に合わせて自然に体が動くというのは、素敵なことですね。
西村も嬉しくなりました。


今回も、みなさんにとって大切なストーリーを共有していただき、ほんの短い時間ですが音楽をともに楽しむことができて、とても充実した時間を過ごさせていただきました。
いつもながら、スマイルをお届けしているはずの私が、逆にみなさんから元気とスマイルをたくさんいただきました。
次回の訪問が、今から待ち遠しいです。


最後に、いつも協力してくださっている調律師の名取さんにも 心から感謝申し上げます。
今回は、いつものパートナーの平井さんに加えて、 若手の綾部さんも来てくださいました。
ありがとうございます!